日本テレビで毎年放送されている24時間テレビ「愛は地球を救う」が毎年賛否両論です。
特に今年は裏番組でNHK「バリバラ」が「身障者の感動的な番組に関してどう思う」という、かなり切り込んだ内容の放送をしていました。
少し前に、TEDというアメリカのカンファレンス番組でステラ・ヤング女子が「身体障害者は、健常者を感動させる為に存在するのではない」と講演し、その事象を「感動ポルノ」と名付けた。
そして、前後してしまうが相模原の障害者施設での連続殺人事件。。。。。
またまた前後してしまって恐縮ですが、乙武氏の不倫報道からの彼の家族への思いや対応など。。。
自分の中で「障害者」という方々への、感じ方というか、イメージというか、考えが定まらず、モヤモヤしているなぁ~と思うので、ちょっとまとめてみようと思います。
はじめのきっかけは「他と比較する」ということなのかと思う。
一般的な典型例として「健常者が障害者を見て、『健康で良かった。私は幸せだ。体が不自由で可哀想』」と感じることだろう。
「他と比較をする」というのは、多少でも知能のある動物ならば持ち合わせている本能だ。
動物・昆虫・魚など、縄張り争いや、異性のパートナーに選んでもらう為の求愛行動などで、他と比較したり、競い合ったりする。
問題の本質は「比較をしたうえで、どう感じるか」なのかなと思う。
さきの例『健康で良かった。私は幸せだ。体が不自由で可哀想。』~の『良かった。幸せだ。可哀想』と感じた点だ。
何故良かったのか?何故幸せなのか?何故可哀想なのか?。。。。。。。。
幸せの定義は相対的なものなので、絶対ではない。
「お金がある」「容姿が良い」「友人が多い」「仕事が出来る」「家族がいる」・・・・・・これらのワードだけでも幸せか否かは、人それぞれの感じ方であり、相対的なのだ。
障害者でも「幸せだ」と感じて日々過ごしている人もいれば、健常者でも「不幸だ」と感じている人もいる。
テレビを見ただけで、「健康で良かった」と感じるのは自由ではあると同時に、そういう発想してしまう時点で、誰で有ろうと傲慢で非礼な要素を含んでいるし、「可哀想」と思うことは、優越感からわき出てくる自分の価値観の一方的な押しつけなのではないだろうか?
身障者を見て、比較をしても良い。本能として比較してしまうことを否定してはいけない。
違うものは違うのだ。健常者同士を比較しても同様に、違うものは違うのだ。
比較をしたうえで「そりゃあ~地球ではそういう人もいるよ。人それぞれの人生を生きている。」とだけ感じられるようになれたら、もやもやした変な雰囲気は無くなり、健全な空気が広がるのだと思う。
もちろん、身障者は内容度合いによって、サポートが必要なケースもある。そんなときは、サポートを遠慮なく求め、そしてサポートしたいと思う人は必ずいるので、そういう人がサポート出来れば良いのではないだろうか?
突き詰めてまとめてしまうと「皆、地球で生きている生物」と考えるのが、シンプルな答えなんだろう。
人間の他に、動物・魚・昆虫・植物・微生物も含めてしまう。
ただ、この世に生を受けたので、死ぬまで生きている。 それだけなのだ。
「昆虫は可哀想(昆虫でなくてよかった)」なんて思っても、果たしてそうだろうか?
昆虫からすれば「人間は迷ったり、悩んだり、お金に振り回されたり、可哀想」なんて目線で我々人間を見ているかもしれない
障害者の方も、障害によって制限されてしまう環境の中で生きて、本人なりに喜怒哀楽の感情と共に考えて生きているだけ。
仮に自分が何らかの障害を負ってしまったと想像すると。。。。。しばらくは苦悩すれども、それを受け入れて、その障害の中で出来る限り自立した生き方を選ぶのだと思う。周りから可哀想とは・・・・・思われたくないな。うん。
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特に今年は裏番組でNHK「バリバラ」が「身障者の感動的な番組に関してどう思う」という、かなり切り込んだ内容の放送をしていました。
少し前に、TEDというアメリカのカンファレンス番組でステラ・ヤング女子が「身体障害者は、健常者を感動させる為に存在するのではない」と講演し、その事象を「感動ポルノ」と名付けた。
そして、前後してしまうが相模原の障害者施設での連続殺人事件。。。。。
またまた前後してしまって恐縮ですが、乙武氏の不倫報道からの彼の家族への思いや対応など。。。
自分の中で「障害者」という方々への、感じ方というか、イメージというか、考えが定まらず、モヤモヤしているなぁ~と思うので、ちょっとまとめてみようと思います。
はじめのきっかけは「他と比較する」ということなのかと思う。
一般的な典型例として「健常者が障害者を見て、『健康で良かった。私は幸せだ。体が不自由で可哀想』」と感じることだろう。
「他と比較をする」というのは、多少でも知能のある動物ならば持ち合わせている本能だ。
動物・昆虫・魚など、縄張り争いや、異性のパートナーに選んでもらう為の求愛行動などで、他と比較したり、競い合ったりする。
問題の本質は「比較をしたうえで、どう感じるか」なのかなと思う。
さきの例『健康で良かった。私は幸せだ。体が不自由で可哀想。』~の『良かった。幸せだ。可哀想』と感じた点だ。
何故良かったのか?何故幸せなのか?何故可哀想なのか?。。。。。。。。
幸せの定義は相対的なものなので、絶対ではない。
「お金がある」「容姿が良い」「友人が多い」「仕事が出来る」「家族がいる」・・・・・・これらのワードだけでも幸せか否かは、人それぞれの感じ方であり、相対的なのだ。
障害者でも「幸せだ」と感じて日々過ごしている人もいれば、健常者でも「不幸だ」と感じている人もいる。
テレビを見ただけで、「健康で良かった」と感じるのは自由ではあると同時に、そういう発想してしまう時点で、誰で有ろうと傲慢で非礼な要素を含んでいるし、「可哀想」と思うことは、優越感からわき出てくる自分の価値観の一方的な押しつけなのではないだろうか?
身障者を見て、比較をしても良い。本能として比較してしまうことを否定してはいけない。
違うものは違うのだ。健常者同士を比較しても同様に、違うものは違うのだ。
比較をしたうえで「そりゃあ~地球ではそういう人もいるよ。人それぞれの人生を生きている。」とだけ感じられるようになれたら、もやもやした変な雰囲気は無くなり、健全な空気が広がるのだと思う。
もちろん、身障者は内容度合いによって、サポートが必要なケースもある。そんなときは、サポートを遠慮なく求め、そしてサポートしたいと思う人は必ずいるので、そういう人がサポート出来れば良いのではないだろうか?
突き詰めてまとめてしまうと「皆、地球で生きている生物」と考えるのが、シンプルな答えなんだろう。
人間の他に、動物・魚・昆虫・植物・微生物も含めてしまう。
ただ、この世に生を受けたので、死ぬまで生きている。 それだけなのだ。
「昆虫は可哀想(昆虫でなくてよかった)」なんて思っても、果たしてそうだろうか?
昆虫からすれば「人間は迷ったり、悩んだり、お金に振り回されたり、可哀想」なんて目線で我々人間を見ているかもしれない
障害者の方も、障害によって制限されてしまう環境の中で生きて、本人なりに喜怒哀楽の感情と共に考えて生きているだけ。
仮に自分が何らかの障害を負ってしまったと想像すると。。。。。しばらくは苦悩すれども、それを受け入れて、その障害の中で出来る限り自立した生き方を選ぶのだと思う。周りから可哀想とは・・・・・思われたくないな。うん。
そう考えれば、そこに差別は生まれてこないのではないだろうか。
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煩悩と無心
私個人は24時間テレビに対して昔から「う~ん・・・・・・・」と否定的な感覚です。
今こうして考えをまとめて気がついたことは「健康であることの優越感を、助長するような番組コンセプト」を感じてしまうからなのかと、なんとなく思う。
「感動に仕上げようとする」演出意図も感じ取ってしまう。
健常者だって、意識や意欲の違いで、長時間の遠泳チャレンジや富士山に登れない人(やりたくないと考える人)だっているわけだし、自分自身がそれらをチャレンジして成し遂げたら、自分に対して感動すると思う。








